なぜ働いていると本が読めなくなるのか

映画「花束みたいな恋をした」には、労働をするようになり本が読めなくなっていく様子を象徴的に描いた「パズドラしかできないんだ」というシーンがある。

この本はSNSは見れるのに本が読めない。本に限らず、昔はよくやっていた趣味ができなくなる。このような悩みはなぜ生じるのか、戦前まで遡り分析を行った一冊である。

面白い話がいくつもあった。格差、貧困といった問題と新自由主義というシステムによって規定されすぎている。

歴史的に見ても、教養と格差は近くにいる。立身出世の世の中で知識と努力が、生まれ持って与えられた階層を無効化することができる。修養は近代の空気の中で必要とされてきた。そして教養は新中間階層と労働者階層を分かつように、エリートとしてのアイデンティティを保つための自己研鑽として必要とされた。

現代に近づくにつれて自己啓発の形は学から処世へと変化した。これは日本の雇用形態が関係しており、昇進のためには知よりも立ち回りが優先されたのだ。そして現代に通じるように、自己啓発の形は内面から行動へと変化した。うまく生きるためには行動を変えるしかなかった。
自己啓発は社会を遠ざけるものだという面白い主張が登場する。自己啓発は自分で変えられるものだけを変える。他者や社会といった制御不可能なものは排除し、制御可能な自己のみに注力する。これは自身の商品価値を高めるための行動であり、不安定な労働市場と相性がいい。

つまりは読書はかつて社会参画のためのものであったが、いまやその非制御性は排除の対象となるのだ。このことが働いていると本が読めなくなることに関係してくる。

ノイズが少なく、自分がいま知りたいこと欲するようになる。これはインターネットでさらに加速する。情報も自己啓発と同じように階層を無効化する。本来あるはずの複雑な文脈はインターネットの外部を共有しない今ここの情報によって転覆してしまう。とにかく先端を知ることで格差を無効化できる。ノイジーな読書ではなく、インターネットの情報へ。自然な形であろう。ファスト映画はわかりやすい例であろう。

非制御性をもつコンテンツに触れる余裕が仕事に全身全霊すぎるあまりなくなってしまっている。仕事を半身でやっていきましょうや。

なぜ本を読むのかについて考えた。
他者の文脈に触れるためと答えるだろうか。新書ではより顕著であろう。世界を捉えるためのフレームを増やした。そうしたほうがきっと楽しいから。