好きを言語化する技術
三宅香帆の力を感じる。
面白い。いわゆる「推し」も「言語化」も、積極的に使いたくならないような言葉になってしまったが、好きなものを語るという技術は明らかに重宝され、趣向を通じて自分自身の性質、存在を確かなものにするために必要とされるものとなっていると感じる。その一方でその語りは一部の人たちに独占されており、インターネットにおいては「つくる者」「消費する者」の対立に加え、「語る者」「語らぬ者」の対立による差が開き続けていたように思う。
テクノロジーがかつてあった特権性を均質化したように、テクニックもまた、特権性を解体し、それを求める多くの人々のものに行き渡らせるものであるのだろう。「語り」の構造を解体し、自らもその特権性を獲得するための方法を、著者の経験を活かしつつも理解できるというような本だった。
技術として、参考になったことを以下にまとめておく。
発想
- 気になった詳細の具体例をメモに残す
- ポジティブ(共感・驚き)、ネガティブ(不快・退屈)に分類し、なぜそう思ったのか連想していく
書く
- 読者を想定する
- 何を伝えたいのか一つに絞り常に意識する
- 修正を前提にとにかく最後まで書く
好きだったところ
好きを語ることが自分につながる
- なぜ好きを語るのか と考えたとき、自分の形を把握するためだ と理解している。
- 良いものを見たとき、それを誰かに伝えたいという衝動が根源ではあるとも思うが、いま語る意味はそれだけではないと思う。
- 私の感じる好き・嫌い(・あるいはもっと多くの感情)を出会った物たちに当てはめていくこと、無意識に積み重ねてきたその判断が今の私の形質を決定していると感じている。
- 自分が何者なのかという悩みは、多くのものにとってより身近で、深刻なものになっている。答えの出ることがなさそうな問いに対して、ひとつの近似解を知るために、自分自身をつくる好きを知ることは有効な手段となりうるのではないか。
移ろっていく好きという感情を、できるだけそのまま保存しておくために言葉を使う
- 素敵な考え方だと思った。
- 過去の自分の感情は、未来の自分が見ても面白いだろう。
他者の言葉と適切な距離をとる
- これを伝えたかったのではないか
- 映画を見た後すぐにSNSで感想を探してしまう、そうすることによって自分の感じたことを他人の意見で上書きしてしまう。恐ろしい支配関係にみな自覚的ではありつつも、思考の経済性の問題か、だれもがやってしまうことだろう。
- 他者の言葉から影響を受けること自体は否定しなくとも、すべてがそうなって、私のすべての考えが、誰かの考えに置き換わってしまうことは恐ろしいし、そうでなくとも誰かが影響を与えすぎている場合は少し寂しい。