「ふつうの暮らし」を美学する

椅子や掃除、通勤通学のルーティンまでの身近なものごとを芸術として捉え直すことができるのか、それをすることで何が見えてくるのかを問う。日常と美術に境界線を引くことは困難を伴うが、きちんと整理して分析することで対象がどのような性質を持ち、それが伝統的なものとどのように差異があるのかは見えてくる。私たちの日常のものに対して美学の立場から分析の光を当て、体系立てて蓄積していくことはエッセイを構造化していくような面白みがあった。生活はこうなっていくべきという道徳は気に食わないが、確かに自分のリズムで生きていくことができる道を示すことができるのは、日常美学の重要な点かもしれない。

以下断片。

美学は無関心性に規定されていた。線を引くためには仕方がない、というか純粋な美的体験を語るためには日常と関わりのないものでなければ難しい。当初の意図は異なるかもしれないが、力学を学び始めるときに最初は摩擦を無視するよう、できるだけ純なモデルを構築したいのだろうと思った。

標準的な性質と反標準的な性質、可変的な性質の作用といったものを見るときのフレームの存在。正統な見方や時代背景、作者、描画法、さまざまな枠組みで捉えてからその差異を捉える。前提の知識や経験があることによって可能になる楽しみ方は確かにあるなと思った。暴力的な経験との優劣を語ることは難しいし、意味があるのかは不明。

反標準的性質を効果的に出現させることで、斬新で面白く、驚きに満ちた表現が可能になる。制作の基本なんだろう。

椅子は視覚的な評価フレームだけではない、ネットワーク的な作用を持っている。暮らしの中で椅子を置くことで目的を持った空間が生まれていく。椅子の存在の特異性を考え始める。鑑賞者だった我々が製作者としての一端を担うことにより生まれる。世界制作、という言葉は日常美学を端的に表しているのかもしれない。制作と鑑賞の2つの側面から捉えることで見えるものが確かにある。

日常美学について考えることは、エッセイを書くことにも似ている。日常の中で生じる感性の動きを取り出し、概念化し、分析しながら記述するという点で、両者は近い営みなのだと思う。

芸術作品に向けてきた記述や分析を日常へ広げることで、これまで見過ごしていたものが見えてくる。美学が感性を広く捉える学問であるなら、その対象を生活へ拡張することには十分な意味がある。新しく、まだ整理されきっていない領域だからこそ、議論にも面白さがある。